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「金(キム)の戦争」寸又峡温泉立て篭り事件(2):事件

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大井川上流、国立公園南アルプスの麓に寸又峡温泉はある。寸又川が作り出した美しい峡谷に人口数百人の集落があり、旅館十数件の鄙びた温泉地となっている。

金嬉老が殆ど知られぬこの地に目をつけたのは、以前に寸又峡近くの山中で山小屋暮らしをしていたことがあるからであろう。この時の自然のままの暮らしの記憶が、死地をここに選んだ理由と思われる。

立て篭り

人質は旅館の夫婦とその子供三人の五名、発電所の仕事で来ていた宿泊客八名の計13人。離れにいた宿泊客二名は脱出した。

金嬉老は人質に防護壁を作らせた後、土下座して彼らに謝ったという。「関係のない皆さんにこんなことをして申し訳ない。自分は朝鮮人として惨めな思いをさせられ、今回警察がそういう問題を起こした事に対して謝罪要求をし、この責任は自らの死を持って謝罪する。人質の方には絶対に危害を加えないから許して欲しい。」

午前零時を過ぎた頃、金嬉老は清水署に電話をし懇意にしていた刑事と新聞記者をよこすように要求する。

報道合戦

警察が前線本部を構えたのは寸又峡温泉入口に建つ「翠紅苑」。現在は見通せないが当時は「ふじみや旅館」まで障害物もなく良く見えたそうだ。

集まったのは警察だけではなく、全国から多くの報道記者も詰めかけた。金嬉老は記者を旅館に招き、身体に巻いたダイナマイトを見せつけながら民族差別を訴えた。殺人は極めて個人的な動機によるものであるが、狡猾に問題をすり替えている。金嬉老の要求は暴言を吐いた刑事のテレビでの謝罪。

要求通り刑事はテレビで謝るが、巧妙に差別発言の事実を避けた言い回しだったため解決には至らず。

その間も報道合戦はエスカレートして行き、日本中がこの事件に沸いた。学生から主婦、「文化人」なる者たちが自分なら説得できると次々と押しかけてきたそうである。

金嬉老は言葉通り人質に危害を加える事はなく、宿泊客はマージャンをしたり比較的自由にしていた。使いに出された事もある。彼は警察や家族に戻るなと懇願されたが、他の人質の心配もあって自らふじみやに戻った。人質と金嬉老の間に多少は信頼関係が出来上がっていたのかもしれない。

金嬉老自身も人質の一人を連れて外を歩き回ったり、結構自由にしている。ライフルを振りかざす金嬉老に警察は手も足も出ない。

まるでアル・パチーノ主演の映画「狼たちの午後」を思い起こさせる光景である。

2月24日

金嬉老は警察本部長の謝罪放送を要求し、それが叶えられたことで人質の一人を解放する事に決めた。午後三時過ぎ、記者会見をすると言って人質と共に玄関に現れる。この時、金嬉老はいつもは手放さなかったライフルを持たなかった。

姿を見せた金嬉老を報道陣がわっと取り囲む。「本部長が誠意を見せたので人質を一人解放する」と言って、金嬉老は旅館の外にある車まで人質を送って行こうとした。

記者に混じっていた警察がすかさず金嬉老に飛びかかった。自殺できないように咽を押さえ、数人の警察が金嬉老を押さえつけ、ぐいぐいと押し込んで行く。玄関のガラスが割れて飛び散り、柱がひしゃげた。

昭和43年2月24日15時25分、四日間に及ぶ篭城事件の幕が下ろされた。

事件の後

それまで知る人ぞしるといった僻地の寸又峡温泉は、金嬉老が最中に予言した通りこの事件により有名になった。大井川鉄道の敷設など奥大井の観光開発はこの事件がなければ行われなかったかもしれない。

金嬉老は32年の刑務所暮らしを終えた後、韓国に渡った。金嬉老の事件は韓国では英雄扱いで、韓国政府から厚い待遇で迎え入れられたのだ。しかし女性絡みの事件を起こし、韓国で再び刑務所暮らしとなった。

1991年にフジテレビ系列で北野たけし主演のドラマ「金の戦争」が放映され、それを見て寸又峡の自然に魅了された自分は翌週末に早速寸又峡に出かけました。山の深さに恐れ、寸又峡温泉手前のキャンプ場(キャンプ場へ至る林道は現在は閉鎖されているのでもう営業していないらしい)で車中泊をした翌日朝靄の美しさに陶酔したことは今でも鮮明に記憶に残ります。その後、当時はまだ一般車も通れた南アルプス林道に行ったり、すっかり南アルプスにハマってしまったもんだなぁ。

【最寄りの道の駅】

奥大井音戯の郷

2008年3月10日