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倉沢村、消失:ノスタルジー

時刻は既に午後3時を過ぎていた。

冬の陽は短い。もういくらも経たないうちに、写真を撮ることは不可能な明るさになってしまうだろう。焦る気持ちに急かされ、崖にへばりつく急な階段を駆け上がった。すぐに心臓がバクバク激しく打ち始める。

ここは奥多摩、日原鍾乳洞へ向かう道の途中、東京都指定天然記念物でもある「倉沢の檜」への遊歩道だ。遊歩道と言うにはあまりにも手入れが行き届いていない。厚く積もった枯れ葉に足首まで埋まり、思うように足が進まない。「倉沢の檜」のさらに先には、倉沢村がある...筈だった...。


倉沢村は、かつて一人の男が切り拓いた小さな村落である。農業と炭焼きで生計を立て、同姓の者ばかり20人程が住んでいたようだ。転機は、昭和19年頃。村落のすぐ西に鉱山が拓かれ、日原鉱業所が稼働開始した。石灰鉱山で作業する社員用に目をつけられたのが、倉沢村だった。急な斜面にあった段々畑を潰し、そこに社宅が建てられたのだ。

最盛期には200人以上がここに住んでいたという。現在から見れば、車も通れない山中の不便な所になぜ?と感じるが、当時は日原鉱業所まで続く車道はなく、徒歩で山越えすることが基本だったので、倉沢集落はこれでも便が良かったのだろう。売店、共同浴場、床屋、さらにはこの山奥に娯楽場まであったのだそうだ。

しかしやがて道路が整備され、昭和33年には日原社宅が完成した。結果的に車道から外れた山奥になってしまった倉沢からは徐々に人が減っていき、昭和40年を過ぎた頃にはほぼ無人となったということである。崖といっても過言ではないだろう急坂に雛壇状に形成された集落で、隣の家に行くにも息を切らしそうだから、それも無碍なるかなという感はある。


倉沢の檜までは10分少々。枯れ葉に足をとられながらその右を回り込んでさらに先に行くと、村落が現れた。

...。

いや、ねーじゃねーかよ!

雛壇状の急坂は石垣で補強され、階段が遥か上の方まで続いている。しかし、そこにある筈の社宅群は、きれいさっぱり姿を消していた。もしかしてここじゃないのかと暫く戸惑ったが、どう考えてみてもここでしかありえない。雛壇の各区画には、取り壊されたらしい建物の残骸が丁寧に積み上げられている。階段の入口は、無情にも立ち入り禁止の看板が掛かったロープで塞がれていた。

どうやら、取り壊しになったらしい。

近年、ここも他の廃墟の例に漏れず、サバゲー馬鹿たちに荒らされていたようだし、廃墟ブームによって訪れる人も増えただろうから、安全策がとられたのだろう。村には現在でも老人が一人住んでおられるようなので、侵入者達はいい迷惑でしかないだろうが...。

せっかくここまで来たのに...。身体に鞭打って走ってきたのに...。一眼レフと数本のレンズ、ビデオカメラまで詰め込んで、糞重くなってしまったザックをここまで担いできたのに...。

ああ、すっげーがっかりだ。

【GPS】

WGS84 N35'50'43.1 E139'03'47.4

2006年1月 6日